2017.9.4 2018.3.28&5.22
文章と用語を修正しました。
ハッセルブラッドで撮った歴史の残照?
今回はハッセルブラッドで撮った画像。
こちらを広げてお話させていただきます。
いつもの「ハッセル片手」での産物ですが
この時は、少々、遠出をした際のもの。
奄美大島近くの喜界島、その散歩撮影結果です。
※ 503CX、後期のハッセル。
早速、こちらが喜界島に咲く俗称「特攻花」
(テンニンギク・・天人菊)
菊の一種と聞きましたが
実際はちょっと違うとのこと。
ともかくも、気になる花なのです。
※ 『プラナー80mm』使用の撮影結果
ベルビア100で撮ったものをスキャンしています。
ところで、フィルムを見て
つい発した言葉が「ベルビアか・・」。
そして
「結構、色味を意識していたのか」
と続きます。
過去は今よりも僕自身
かなり鮮明な色にこだわっていたのです。
鮮明な色、弾けるような色合い
というと「どんな色」と問われそうですが
早い話ビビッドですが
濃い色が好みだったのです。
違う?
(ちょっと、自信がなくなりました。)
先に進みます。
この「特攻花」ですが
その名の由来はかつての戦争につながります。
それは太平洋戦争中に海軍の航空基地が
喜界島に置かれていた!
これに結びついていきます。
しかも、この島は昭和20年ごろ
鹿児島県本土を離陸した特攻機が
沖縄へ向かうための中継基地だった!
ですから、特攻隊員が
この花を喜界島に持ち込んだのだ。
とされています。
というか、そういう話を島では聞きました。
そのためか、その経緯もあって
現在ある島の空港・飛行場の喜界空港は
航空基地の滑走路が発展して広がった
・・もの。
ここまでの話、鈍感な駆け上がり
・・本土からから来た何も知らぬこの男は
島の方々には申し訳ないと思いつつも
「そうなんだ」で終わるわけですが
それでも、ですよ。
知らない歴史を空港を目に入れた
短い時間の中で垣間見た感じにはなります。
・・・(間を開けましょう)・・・
続いて
こちらは何の変哲もない画像ですが
空港近くで駐機中の旅客機。
何か、パチリとしたい!
そんな衝動に駆られます。
※ 『プラナー80mm』プロビア100で撮影。
フィルムを見て気づきます。
これはベルビアではなくプロビアです。
ということは
この空港に少なくとも二回は寄っている
ということでしょう。
心の中で「あ、そうだったか」となります。
(忘れています。)
きっと、カメラを持って
ガチャガチャやっていたのでしょう。
くどいながらもそんなことが頭に浮かびます。
それで、先ほどの特攻隊の話へ
ちょっと思いだしたので、少々つなげますと。
先ほどの続きです。
特攻機の離陸元はどこか、と言えば
鹿児島県大隅半島側の鹿屋。
薩摩半島の鹿屋 です。
そこで特攻隊員が飛び立つ際に
土地の人々から花を頂戴したり
自ら摘んだものを機内に持ち込んだようです。
そのアト、喜界島を経由したことから
花は広がったのでしょう。
ともあれ、この話を耳にとらえて
「ここにも特攻隊員が存在したんだ」
その証として映るわけです。
ですからね。
少々、何かを考えさせられる・・
そんな思いにはなりますよね。
ここまでの話・・
カメラ・写真とは直接関係のないものですが
これもカメラ道からの縁なので
もう少し続けてみたいと思います。
そこで
喜界島へ特攻隊員が向かう背景は諸説あり
とされながらも
どれが明確なものか
この門外漢にはわからないものの
「こうではないか」
と語られるものはあるようなのです。
それがこちら、単純に沖縄までの距離
(飛行距離、航続距離とか呼ばれるもの)が
とにかく長大ということ。
燃料の補給やら整備、休息などで
経由する場所が必要だった!
そのためのちょうど具合がよいところ
となると
「喜界島がよし」
そんな感じでしょうか。
実際、喜界島に着陸した特攻機には
エンジントラブルに見舞われ
この地で飛行を断念したものもあったとか。
これは土地の方のお話を受けて知ったこと。
また
映画の話を引っ張りますが
「永遠の0」でもストーリーの中に
喜界島の名が幾度か出てきます。
中継の必要性を持つ意味で・・。
この映画は海軍の戦闘機搭乗者を
主人公にしていたと考えますので
喜界島がそうした背景を持つ運命の島
と見なしてもおかしくはないでしょう。
で、つい、空港のテンニンギクを見ながら
どこに顔を向けるでもなく
合掌
となります。
ということで、撮影とは直接関係なく
少々、撮影場所の背景に染まった次第。
では、このアトは喜界島で撮影した画像に
再び目を向けてみます、
※ 『プラナー80mm』ベルビア100で撮影。
これはベルビアでした。
被写体を浮き上がらせたい一念で
F値は『2.8-4.0』でピントを合わせます。
ここで使ったプラナーレンズは白。
でも、白も黒も、当時の駆け上がりは
その差があまりわからなかった!
というのが本音。
使いたいから使ったレンズということで
特に含蓄に富む言葉はありません。
ということで、今回はここまでです。
お付き合いいただき、ありがとうございます。
また、寄ってください。
では、失礼します。
(平成28年8月13日「平成21年夏の記録」)
再編集 平成29年9月4日
今回、このページを見直しています。
何というのか
やはり深夜に眠い目をこすりながら作成すると
おかしいところが多々生じます。
いきなり言い訳から入りましたが
これからも見直しと加筆は続けます。
それで、カメラ、レンズの話に触れますと
ここにある画像を撮った当時は
東ヨーロッパのカメラに魅せられ
熱病にかかっていた時期から脱した頃。
平成18年を挟んだ2、3年の間
この頃は再びハッセルに重心が移るのです。
しかも再びですから
さすがに鈍い僕でも二回目となると
勝手がわかるというか、扱いがなめらかへ。
その勢いもあって
片手使用であちらこちらへ出かけます。
で、その一つがこの喜界島。
そして、レンズも以前のように
望遠ばかりに目が向くことがなくなり
もっぱら標準域の『80mm』『100mm』へ。
あるいは『120mm』を好むようになりました。
(プラナーへのこだわりは強いのです。)
おそらく、開放値、重さから
出かけ先の環境の影響を受けにくい
と思ったのでしょう。
(時間が経つと忘れています。)
また、個人的な思いですが
プラナーはF値『2.8-4』ぐらいが
「よかった」と見なしています。
(『80mm』の場合ですね。)
なんとなく、寄れば望遠的な効果も出ますし
結構、面白いのです。
ということで、とりとめもない話ですが
今回はここまでです。
お付き合いいただき、ありがとうございます。
また、寄ってください。
では、失礼します。
(平成29年9月4日)
【紹介です】
駆け上がりはここで取り上げてみたい電子書籍
『僕が見た、喜界島 KIKAIJIMA』
その作者コンタロウを軸とする
『コンタロウ一家』の一員でもあります。
そこで、もし、本ページの喜界島に
関心をお持ちになられたならば
こちらを検索してみてはいかがでしょうか。
『喜界島 コンタロウ』
少なからず、その世界が広がると思いますよ。